home > > 序 3


 スピノザは今現在は故郷の片田舎に住んでいますが、教員生活のスタートは、バブル真っ盛りの頃の神奈川県は川崎市でした。
 スピノザは、そこで生まれて初めて同和教育なるものを見聞しました。
 スピノザが現在住んでいる田舎には、部落差別はありません。部落=Aという言葉は、普通に単なる集落、という意味で使われます。ですから、同和教育、というものを知識としては知っていましたが、実態にはまるで無知でした。
 同和教育の一環として、在日差別についても、先輩の教員から教えられました。その先輩は、在日の子供に本名を名乗らせる、という運動にずっと取り組んでいました。
 回ってくる組合の資料も、なかなかのものでした。
 その組合の資料には、元寇の時に元の船が台風で沈んだのは、高麗の船大工が不良品の釘を打って、船がすぐに壊れるようにしておいたからだ、と書いてありました。
 高麗の民衆の、元に対する抵抗、サボタージュのおかげで日本は助かったのだ、という風に教え込まれたのです。
(考えてみれば変ですよね。だって、元寇の時にやってきた兵士のかなりの数が、元に降伏した高麗兵でしたし、櫂の漕ぎ手などの船乗りたちも、高麗の農民から徴発された人々だったのですから)。
 馬鹿だったスピノザは、その話をすっかり信じ込んで生徒に教えました。
 生徒は……。
 スピノザが勤めていた高校は、神奈川でも一、二を争う、いわゆる教育困難校でした。中学校の通信簿が、5段階でオール1、なんて子が、平気で合格しました。学区が神奈川県の半分にまたがる工業高校でしたので、その学区内の百校以上の中学校から、元番長が集合してきました。
 そのため、横浜にある朝鮮高級学校とよくもめていました。ですから、在日の実態は生徒のほうが良く知っていました。それで、スピノザが教えることを信じ込む生徒はいませんでした。
 在日の強制連行についても、その学校の先輩に教えられました。でも、それを授業で教えていたときに、ある不良生徒が言いました。
「先生、畑で働いていたところを無理矢理連れられてきたんなら、なんで戦争が終わったらすぐ帰らなかったんや」
 絶句しました。
 そんなこと考えてもいなかったのです。
 確かにおかしい。
 でも、そのときは何とかごまかして授業を進め、それ以上その疑問を突っ込んで考えることはしませんでした。教育困難校なので、毎日の生徒指導に追われ、そんなことを考えている心のゆとりがなかったのです。
 こういう雰囲気の中で、ある日、朝日新聞の「声」欄を読みました。そこには、在日朝鮮人の投稿が載っていました。
 日の丸・君が代は、在日にとっては血塗れの侵略のシンボルである、という、おなじみのステレオタイプな論調の投稿でした。
 田舎育ちで、素朴に日の丸・君が代を愛していたスピノザは、この投稿に衝撃を受けました。なんだか目が醒めたような気がしました。
 以来、神奈川を去って田舎に帰ってからも、神奈川で在日差別と闘っている先輩、同輩に連帯するべく日の丸・君が代反対闘争を進めていました。


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