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10 甘きこと蜜のごとし

 さて、こんな風に、韓国人は、ウリになると、私とあなたとの境がなくなります。日本人は、親しき仲にも礼儀あり、と考えます。ところが、韓国人は、親しき仲には礼儀なし、と考えるのです。
 名刺を交換しただけで、家族のような付き合いになる。
 ちょっと考えると、いいことのようにも思えます。でも、よく考えると、迷惑なことこの上ありません。
 例え相当に親しい友人であっても、いきなり冷蔵庫を開けられたり、自分のカバンを漁られたりしたら、スピノザは嫌です。
 以前に、スピノザは自分のブログに、韓国人はウリになってしまうと、歯ブラシまで共有するんだ、と書いたことがあります。そうしたら、コメントで、なんぼなんでも信じられない、と、嘘つき呼ばわりされました。ソースを売ってしまったため、反論できませんでした。
 で、別の目的で買った本に、ソースを見つけました。篠原令さんという、韓国人のお嫁さんをもらった人の本です。「妻をめとらば韓国人」(文藝春秋)のp61〜62です。

――学生下宿に住んでいた頃、学生たちが歯ブラシを融通しあったり、パンツを共有しているのにびっくりしたことがあります。――

 おい! パンツまでかよ!
 これは、韓国人は情が深い、という肯定的な文脈で語られている話なのですが、スピノザには、理解できません。こんな情なら要りません。結構です。

 君子の交わりは、淡きこと水のごとし、と言います。

 これと並んで、小人の交わりは甘きこと蜜のごとし、と言います。
 スピノザは、この蜜のようにべたべたした小人の交わりが大嫌いです。友人、知人はやはり選びたいものです。
 スピノザは、様々な合唱団の指揮者をしていましたので、いろんな人と交流があります。でも、本当に心を割って話せる友人は、ほんの数人です。その代わり、その数人とは、まさに刎頸の友、と言っていい交わり方をしています。
 自分の選択が入らないところで、いきなり「おお、我が心の友よ」なんて言われて抱きつかれても、「え、君なんて知らないよ」と突き放すしかありません。
 ここまで見てきて、スピノザは、要するに、ウリというのは、独立した、責任ある主体としての人格を持つ個我≠ニいうものが想定、確立されていない空間でのみ成立し得る概念なのではないか、と思うようになりました。
 え? だって、韓国って工業製品を輸出している先進国だろう? 個我が発達していないって、そんな馬鹿な。
 とあなたは思ったことだろうと思います。
 そうです。それこそが、スピノザが最初にぶち当たった疑問なのです。
 でも、思い出してください。夏目漱石や、森鴎外を初めとする文豪たちが、いかにイエ≠フくびきから逃れ、近代的な自我を解き放つか、に苦闘したか、を。日本でも、イエという共同体から独立した、近代的な自我の確立に向けてもがき始めてから、まだようやく百年余りです。
 次にあげるのは、漱石の「こころ」の有名な場面です。

――「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結(ぎょうけつ)したように感じた。(中略)その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。(中略)
 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺(まくらべ)は存外(ぞんがい)静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招(てまね)ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯(うなず)いた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧(もうろう)としていなかった。
 私はまた病室を退(しりぞ)いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂(たもと)の中へ先生の手紙を投げ込んだ。(中略)私はすぐ俥(くるま)を停車場(ステーション)へ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片(かみぎれ)を宛(あ)てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであった(中略)そうして思い切った勢(いきお)いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂(たもと)から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。――

 主人公の「私」が、病気の父を置いて、どうやら自殺するらしい「先生」の下に走る場面です。
 父親の臨終を看取るのは、子として、孝≠フ発露として当たり前の義務でした。それがイエ≠フ倫理です。
 ところが、この場面で「私」は、父よりも、個人的に師と仰ぐ「先生」を優先します。
 ここです。
 この瞬間に、イエ≠フくびきから逃れた、近代的な個我≠ェ誕生する道が明らかに開けたのです。
 しかも、この「先生」が、冒頭で、体の優れて白い$シ洋人の前で、堂々と、対等にわたり合っているかのように振る舞っているだけに、意味深です。
 イギリス留学で苦労した漱石には、やはり西欧的近代と、真正面から対決しよう、という心構えがあったのではないでしょうか。
 西欧的近代というものは、資本主義と不可分です。
 そして、その資本主義というものが、確立した自我を持つ個人が、直接〈神〉と相対峙するプロテスタントの手で生み出されたことは、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で述べたとおりです。
 また、資本主義、という経済体制を導入しなければ、いくら西洋の大砲や、軍艦を導入しても近代化は出来ないことも、「中体西用」の清の改革が挫折し、日清戦争で日本に大敗したことからも明らかです。
 近代化にとって、確立した個我は、絶対の要請なのです。
「こころ」は、確立した個我が当たり前になってしまった今の日本では、問題の焦点が分かりにくい作品になっています。よく感想文の課題図書になるので、高校生なんかにも不人気のようです。
 でも、これは、ヨーロッパ近代と対峙した日本文学の、一つの金字塔≠ネのです。


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