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11 文学に現れたウリ

 では、韓国、と言うより、朝鮮には、近代的な自我を打ち立てん、と志す文学者、思想家はいなかったのでしょうか? 西欧的近代に素裸で立ち向かう、若者はいなかったのでしょうか?
 恐らく、朝鮮民族にとって西欧的近代は、直接姿を現しません。それは、日本≠ニいう姿をとって現れるはずです。
 ならば、日帝(イル・チェ)=日本帝国主義の姿を取った西欧的近代でかまいません。
 その無慈悲な近代に、徒手空拳で対峙した若者、思想家はいるのでしょうか?
 そんなことを考えながら、調べ物をしていたら、こんな詩にぶち当たりました。
 韓龍雲の詩集「ニムの沈黙」の序「贅言」という詩です。
 東京経済大学教授、徐京植の「秤にかけてはいけない」(影書房)という本(はっきり言って、これはくだらない駄本です)のp260に紹介してあった詩です。

――「ニム」のみがニムではなく、命と思うものはすべてニムである。衆生が釈迦のニムならば、哲学はカントのニムである。バラの花のニムが春雨ならば、マッチーニのニムはイタリアである。ニムはわたしが愛するだけでなく、わたしを愛するのだ。
 恋愛が自由ならば、ニムも自由であろう。しかしおまえたちは名よき自由にこまごました拘束を受けるではないか。おまえにもニムがあるか。あるとすればニムではなく、おまえの影なのだ。
 わたしは日の沈む野に帰る道を失ってさまよう幼い羊がいとしくてこの詩をしるす。――

 おお、この詩は、美しいと思いました。
 ニムというのは、日本語で言うと、〜様、の「様」に当たります。社長ニム、とか先生ニム、という風に使いますが、日本語の「様」より用法が広く、主、という意味も持ち、また、あなた、という呼びかけにも使うようです。
「衆生が釈迦のニムならば」という句は、美しい。大変、宗教・仏教の本質を突いています。
 あ、言い忘れていましたが、韓龍雲はお坊さんです。
 そして思いました。
「ニムの沈黙」は、日帝の姿をした西洋的近代≠ニ互角にわたり合おうとしているのか? と。
「さまよう幼い羊」というのは、日帝に支配される朝鮮民族の暗喩かな。なら、漱石、鴎外のように、そういう西洋的近代に立ち向かって、奮戦しているかな。
 そう思って興味が湧いたので、韓龍雲の詩集を探してみたら、なんと、ありました。本当に日本人って、何でも翻訳するんですね。
 で、早速買ってみました。講談社の「韓国文学名作選」から「ニムの沈黙」。そして、読んでみました。(序――贅言は、徐京植が引用したものと少し違いますが、どうやら他の訳があるようです)。
 ううむ、なんだか、仏教と民族とウリ、三者の間で揺れ動いている? 感じがします。ちょっと中二病的かな。
「芸術家」という詩の一行。

――ぼくなんぞ、抒情詩人になるにはあまりにも素質に欠けているのかもしれません。――

 ううーん、これはどうでしょう? 美しいと言えるでしょうか?

 お前は歌うな
 お前は赤ままの花やとんぼの羽を歌うな
 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな

 右は有名な、中野重治の「歌のわかれ」の冒頭の一連ですが。同じ「詩が詠えない」状況を表すにも、こんなに違う。
 詩としては、やはり重治の方がずっといいですね。素質なんて生硬な言葉が、いきなり入ってきては、詩は興ざめです。
 とは言え、朝鮮語は、日本でいうやまとことば≠ノ当たる基層言語が、漢語によって駆逐され、ほとんど残っていない、という事情は差し引かなければならないとは思いますが。
 そして、「あなたでなければ」という詩の最終行。

――わたしはつまり あなたですもの。――

 やっぱり、自我が共同体意識に溶融したウリなんですかね。
 まあ、近代インドの聖者、ラーマ・クリシュナも、カーリー女神との一体感の中で、似たような言葉を口にするわけですが。
 ちょっと、そういう神聖な境域には達していないかな、と思います。
 うーん、やはり、ハングルを使った、固有語による韻文の歴史が短いからこうなってしまうんでしょうかねえ。何せ、知識人は、ずっと漢詩を作っていましたからねえ。(その割には、韓国では詩集がよく売れるそうですが)。
 万葉集の昔から、脈々と受け継がれてきた詩文の伝統を持つことのありがたさを、しみじみと感じますね。
 やはりこの詩集にも、確立した自我と、民族、仏教の間の範疇分けができていない気配があります。
 ウリの呪縛から抜けきっていない。西欧的近代とは、向き合っていない。そんな気がします。
 そして、この「ニムの沈黙」を読んでいると、だんだん既視感に襲われてくるんですね。
 インドに、タゴールという詩人がいまして、「ギーターンジャリ」という美しい詩集(岩波書店)を著しています。
 このタゴールの詩に似ているんです。タゴール自身が英訳した、散文詩になっているやつです。(渡辺照宏訳)
 日本語では、同じ渡辺照宏氏が韻文に訳していまして、こっちの方が散文訳より圧倒的に美しいです。
 で、読み進めてみたら、まんま、「タゴールの詩『GARDENISTO』を読んで」という詩にぶつかりました。(GARDENISTOが何なのか、ちょっと分かりません。エスペラントかな?)。
 良く検索してみたら、金億なる韓国人が、タゴールの「園庭」など数編を訳しているそうですので、やはりそれなのでしょうね。
 既視感も何も、言っちゃあ悪いが、タゴールのパクリなのね、っていう気分になります。
 タゴールの方は、西欧的近代と向かい合っているどころの騒ぎではありません。
 むしろ逆に、西欧的近代の、我欲の住み処としての「個我」の在り方を、西欧人に反省させるきっかけにまでなっています。
 そのぐらいになれば、ウリだろうが西瓜だろうが、うり坊だろうが立派なものなんですが。
 しかしまあ、本当に、ウリって、なんなんでしょうねえ。


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