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13 欧米化とウリ

 産業革命以後、世界は欧米化の荒波に、否応なしに翻弄されました。世界史は、ほとんど西欧世界のみを中心とする史観で書き換えられました。
 スピノザは、こうしたヨーロッパ中心史観に抵抗しながら、アジア史を、しかも中国史ではないアジア史を学ぶことを選択しました。
 ですから、こうした近代的な自我を問う問題意識には、人一倍関心があります。
 その観点からすると、ウリという概念には、限りない不思議さ、不気味さを感じざるを得ません。
 韓国語には、ウリの他に、私個人、を指す言葉として「チョ」と「ナ」、と言う単語があります。しかし、スピノザが韓国、北朝鮮に興味を持ちだした2002年当時は、ほとんど表面に出てきませんでした。
 それが、最近は日本語や英語の影響もあってか、若い人の間で使われ始めた、という話がネットに載っていました。
 果たして、「チョ」と「ナ」は、ウリから分化して、近代的な個我の核となれるのでしょうか。
 最近の読売の記事にこんなのがありました。

 ――韓国文学 台頭の予感【内面描写 若手が続々】
(前略)韓国では、1980年代まで朝鮮戦争や民主化運動など政治的・社会的な題材を扱った文学が主流だった。(中略)
 しかし80年代以降、民主化とともに、(中略)(日本の影響で)個人の内面を描く新しい文学が生み出されるようになった。(中略)
 ハン・ガン著『菜食主義者』を翻訳したきむ・ふなさん(48)は、「90年代以降、作家たちは政治や社会に代わって等身大の人間をテーマにするようになった」と説明。代表的な作家として、(韓国で185万部を売り上げた『母(オンマ)をお願い』の著者、申京淑(シンギョンスク)さん(48)(中略)ら若手の名を挙げる。(後略)――( )内はスピノザ

 さて、こうした若手(中堅?)の作家たちから、西欧的近代と真正面から向き合い、個我を確立せんとする韓国の夏目漱石、森鴎外は現れてくるのでしょうか。
 コリアウォッチャーとしては、今後の韓国文学の行方を、なま暖かく見守りたいと思います。
 と、推敲していたら、この記事にある申京淑著「母をお願い」が集英社から翻訳・出版されました。早速読んでみました。
 その冒頭、22ページ辺りで抱いた印象のメモが、これ。
「なんか、オンマを美化というか聖化≠オすぎじゃね? なんか、紋切り型の、聖母、って感じなんだけど」
 どうも、聖母としてのオンマに、ウリを象徴させ、その喪失を嘆きながら、結局そこに回帰していく、そんな話になりそうだな、という危惧を持ちながら読み進めました。
 で、結局その通りになりました。オンマという聖母の中に、家族共同体がみんな溶融してしまって、大きな群体としてうねうねくねっているような、何とも気持ちの悪い感じ。結局、ウリから一歩も抜け出していません。
 しかも、最後の最後で、サン・ピエトロ寺院のピエタ像が出てくるにいたっては、興ざめもいいところです。キリストを抱く聖母マリアじゃあ、あまりにあからさまな種明かしです。
 小説としても、何のどんでん返しもなしで、意外性のかけらもありません。
 まあ、聖母というものは普遍的なテーマですから。この本が三十カ国語に訳されたのも、まあそうかな、とは思いますけど。
 でも、お涙頂戴で、文学としては品下りますね。ガルシア・マルケスの哄笑はおろか、倉橋由美子の冷笑の足元にも及ばない。
 この程度の小説が、200万部近くも売れる、ということそのものが、むしろ韓国文学の病弊・貧困さを如実に表していると思います。
 個我の確立、なんて問題意識は、微塵もなさそうですしね。
 こんな、普遍的そうでいて、実はミニマムなミーイズムでは、なかなか本物の過酷な現実には立ち向かえないでしょうね。

 ウリは強力なようです。

 こんなわけで、ナやチョが使われることも、あるにはあるようですが、未だに、「私は、私が」と自分を主語にするときはウリが使われることが多いらしいです。
 さて、この謎のウリの正体ですが、ここは一つ対義語であるナムの方を見てみましょう。


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