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21 一握の砂=ウリ
                  
 この絶望的に孤独なウリ。秘かに、韓国人もそのことを自覚しているようです。
 ですから、彼らは、よく自らを乾いた砂にたとえます。つまり、握ってみても、すぐバラバラに崩れ去ってしまう。そんな断絶感。孫文が、中国人を評した言葉ですよね。でも、韓国人にもよく当てはまると思います。
 不幸な、人間関係です。
 さて、スピノザを呆然とさせた、韓国人の不思議な人間関係、ウリとナムについて書いてきました。
 異文化には、寛容なつもりのスピノザですが、この人間関係は受け入れられません。ただひたすら気持ちが悪い。生きる美学≠ェ違う、としか言いようがありません。
 まさに、小人の交わりは、甘きこと蜜のごとし、そのものです。
 しかも、小人ですから、いざ、というときには頼りにならない。
 呉善花さんの次の一文をお読み下さい。「続・スカートの風」(角川書店)p200です。

――私もよく知る日本人が事業に失敗して倒産したのだったが、その後間もなく、周りの者たちで彼の「励まし会」を開くので出席して欲しいという連絡が入ったのである。
 私も参加したが、誰もが「自分も出来るだけの力を貸すから、めげずにがんばれ」とはっぱをかけている。そして声援の言葉だけではなく、取り引きでもこんな便宜をはかれるからと、具体的な提示をして、再出発へと力を与えているのだ。
 韓国では、誰もそんなことをやろうと発想する者はいない。相手にすることもしないし、また本人もかつての仕事仲間からは逃げてしまっているだろう。あれほど固い絆を結んでいたはずの友だちも、ほとんど寄りつかなくなってしまうことが多いのである(後略)――

 まさに、金の切れ目が縁の切れ目。この後、呉善花さんは、家族なら違う、と続けるわけですが、あの脱北者の例を見ると、家族も頼りにはならないと思います。
 さすがに、かくてはならじと、韓国でも、
「〈ナム〉を〈ウリ〉化しようとする試みが強く進められている」
(「韓国は一個の哲学である」講談社。p153。一九九八年)。
 という話なんですがねえ……。この本が出版されてから13年たつ今も、ナムの間に開いている亀裂・裂け目は、かえって大きくなっているような気がします。
 ついでに、
「〈ウリ〉のかわりに〈ナ〉を強調することである」
(前掲書p200)
 なんて動きもあるにはあるようですが。韓国の新聞から、ウリが消える様子は一向に見られません。
 このまま、近代的な自我が発達せずに終わるのでしょうか?
 本当に不思議な世界です。

 さて、こんな風に、当惑していたときに、それは起こりました。
 2002年9月17日。

 小泉訪朝です。

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