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2 徴用令アラカルト

 で、この徴用令というのがくせ者でして、日本内地で日本人に対して適用されたのが、昭和14年(1939年)7月からなんです。勅令第451号ですね。
 もし、この時点から、朝鮮人が徴用されたのなら、相当の人数が日本に渡っていただろうと推測されます。
 ところが、これが朝鮮に適用されるのは、昭和19年8月8日からなんです。日本内地に遅れること、約5年です。
 さらに、実際に徴用が実施されたのは、さらにその後の9月からなんですね。
 終戦が、昭和20年8月15日ですから、その期間は僅かに、11ヶ月間ほどです。
 しかも、実際には、戦争末期の日本は、近海の制海権も制空権も失って≠「ます。
 ですから、釜山から下関まで徴用された朝鮮人を運搬できたのは、昭和20年の3月まで。それ以後は、運搬船は運航していません。つまり、実際に徴用が行えたのは、僅か7ヶ月間だったんですね。
 しかも、石油が絶対的に不足している中で、アメリカの潜水艦や艦載機の脅威に怯えながら、ろくな護衛も無しで航海する運搬船。

 まあ、満足に機能するはずがありません。

 何しろ、あの戦艦大和が昭和20年の4月にわずかな護衛だけで、ほぼ丸裸で特攻しなければいけない戦況だったのですから。
 というわけで、そもそも徴用によって、身一つで渡ってきた朝鮮人の人数は、さほど多くなかったと推測されます。
 そういう人のほとんどは、もちろん独身男性だったでしょう。
 まあ、家族がいたとしても、日本に徴用されて来たのは男独りだったはずです。
 万が一、畑を耕していたところを、銃剣で脅されて強制連行されてきたのだとしたら、もちろん家族なんて日本にいるはずがありませんね。
 当然の理です。
 彼らは、徴用されて数ヶ月ですから、むろん朝鮮半島に生活基盤を持っていたでしょう。
 だから、彼らは帰ったはずです。
 故郷へ。
 戦争が終わったら、すぐに。
 アフリカから、それこそ強制連行≠ウれてきた黒人奴隷とは訳が違います。
 下関から釜山なんて、目と鼻の先です。
 奴隷として強制連行≠ウれてきた黒人が、アメリカから、大西洋を渡ってアフリカに帰るのとは比較にもなりません。おまけに、連れてこられて数ヶ月なら、家族も知人も健在なはずです。日本に残る合理的な動機が全くない。
 で、何らかの理由で、徴用で日本に来たのに残った者が245人。
 たった、それだけです。
 帰った者以外で日本に残っていたのは、それだけの利益があった者だけなんですね。
 要するに、戦争が始まる以前から、内地で一旗揚げようと日本に渡ってきて、生活基盤が日本にあったコリアンが残ったというわけです。
 一旗揚がったから、家族も呼び寄せた。
 東北から、東京に移住した労働者と、なんの変わりもないわけです。
 先述の金両基などは、1933年に東京で生まれた、というのですから、当然その親はその前に渡航してきているわけです。
 強制連行とは、なんの関係もない。
 強制連行されて来たわけではないのなら、帰化するか帰ればいい。
 そもそも、徴用が、なぜ強制連行と言われて非難されるのか。それがさっぱり分からない。
 当時、朝鮮人はみんな日本人でした。内地の日本人は、徴兵で最前線に行っています。そこで、文字通り生死を賭けた戦いをしている。
 銃後で、普通に勤労奉仕をしているのなら、最前線の兵士より、よほど安全ではありませんか。
 徴兵令は1873年に発令されました。それが、1927年に兵役法に改正されます。
 そして1938年から、朝鮮人の志願兵が募集されます。

 数十倍の高倍率でした。

 注意してください。
 これはあくまでも志願兵です。
 徴兵ではありません。
 朝鮮で徴兵検査が実施されたのは、なんと1944年になってから。戦争も末期になってからなのです。
 つまり、日本は併合した領地であった朝鮮の人民を、最後の最後まで徴兵しなかったのです。
 数々の戦争で、インド人兵士(勇猛をもって鳴るグルカ兵なんかが有名ですね)を最前線に立たせたイギリスとの、大きな違いです。
 しかも、この徴兵された朝鮮人兵士たちは、訓練の途中で敗戦を迎え、一度も戦線に送り出されることはありませんでした。
 もう一度書きます。
 大英帝国は、インドの植民地化が進むと、インド人兵士を最前線に送り込み、イギリス人自身は戦闘に出なくてすむようにしていました。
 逆に、大日本帝国は、日本人を最前線に送り込み、併合地である朝鮮の民衆は、最前線には送らずに、銃後で働かせました。
 一体、どっちがより悪逆なのでしょうか。
 ご判断にお任せします。


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