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7 ションボリした朝鮮

 コリアンというのは、威張って攻めているときは調子がいいが、いったん守勢に回ると脆い、という特徴があります。サッカーでも、野球でもそうだそうです。
 それまで、準戦勝国民として威張っていたのが、朝鮮戦争が起こったため、心理的になんだか弱くなってしまいます。これまでみたいに威張れません。
 おまけに、日本人も自信を取り戻しつつあり、治安もよくなってきました。朝鮮人が無法に暴れ回る余地が少なくなります。
 ちょうど、金正日が拉致を認めた後の在日朝鮮人社会みたいなものでしょうか。
 この拉致発覚後のテレビで、スピノザは衝撃的な映像を見ています。それは、若いオモニ(母)が、
「今まで、ウリナラには悪い人はいない、と子供に言い聞かせていたのに、これからはどんな顔をして教育をしていけばいいのか……」と悩んでいる映像です。
 正直、びっくりしました。
「ウリナラには(この場合北朝鮮ですね)悪い人はいない」=悪いことをするのは、みんな日本人だ、ということですね。
 実は、前に出てきたチョッパリ(豚足)を始め、ウェノム(倭奴)みたいに、日本人に対する蔑称は多いんですね。
 また、先に挙げた徐京植は、尹東柱の詩をあげて、こんなことを言います。「秤にかけてはならない」影書房。p18から。

――「死ぬ日まで天を仰いで、一点の恥なきことを……」
 尹東柱の詩句を心に浮かべるとき、私自身も恥ずかしさを禁じえない。継続する反植民地闘争の過程で朝鮮人の手で正当化できない犯罪行為がなされたこと、それが植民地主義との闘争に甚大な損害を与えたこと、もはや「一点の恥もない」と顔を上げて言うことができなくなったこと、それらのことが恥ずかしい。――

 いや、凄いと思いませんか?
 だって人間ですよ。

 業の深い人間存在が、

「一点の恥なきことを」
 って、よくそこまで思い上がれるなあ、と感嘆せざるを得ません。尹東柱にしろ、それを引用する徐京植にしろ、何という自惚れ、何という傲慢でしょう。
 拉致発覚までは、徐京植は「一点の恥もない」人生を歩んできたということですよね。本当に、何という図々しさでしょう。
 やはり、仏教を基盤とする文化と、儒教を基盤とする文化は、根本的に違うのでしょうか?
 この詩は、尹東柱の詩集「空と風と星と詩」影書房、の序詩です。

 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを、
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ。
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。

 今宵も星が風に吹きさらされる

 という詩ですが、うーん、やはり
「生きとし生けるものをいとおしまねば」
 なんて、やはり傲慢な詩ですね。
 お前は、神仏か。
 徐京植の引用と、微妙に違いますが、違う訳(上野潤と金時鐘)があります。
 この詩集、韓龍雲の「ニムの沈黙」に比べても、詩としてはできが悪いですね。国民詩人らしいんですが。(この人の詩集を読んでも、韓龍雲の詩集を読んでも、なんともめそめそした女々しさを感じます。やはり、朝鮮白磁と同じ、悲哀の美なんでしょうか)。
 しかも、この詩を引用した、除京植の文章が書かれた節のタイトルが凄い。
「帳消しにしてはならない」
 拉致と植民地支配を秤にかけて、帳消しにしてはならない、って言いたいんですね。徐京植は。

 拉致なんて、全く反省してないじゃないですか。

 いや、こういう態度を恥知らず≠チて言うんじゃありませんか?
「百済が日本に文化を教えてあげた」
 などと教科書に記述するくらいですから、日本文化、ひいては日本人は、韓国文化・韓国人より劣っている、という思い込みによる差別意識がもの凄く強いのですね。
 その分、自分は思い上がっている。
 よく、日本人には、朝鮮人に対する差別意識がある、などと言われますが、実態は全く逆なのです。


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