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6 中華世界のアンガージュマン

 本来、儒教には、そんな風に観念的な論理体系はありませんでした。
 儒教は、本来シャーマニズムが、孔子によって思想体系化されたものですからね。
(加地伸行著「沈黙の宗教――儒教」筑摩書房。p35)
 道教の祖とされる、老子は、それなりに観念的な哲学を持っています。そのせいで、「論語」は漢文で読んでも、普通に分かりますが、「老子」は、注なしでそのまま読んでも、全くわけが分からないことになります。
 おまけに、儒教が漢代に、国学と定められた頃は、すでに儒学はただの繁文縟礼としか言いようのない、煩瑣な儀礼の集大成となり果てていました。
 繁文縟礼というのは、goo辞書によると、礼儀や規則、形式などがこまごまして煩わしいことです。「文」はあや、飾り、また礼儀、規則の条文などの意。「繁文」はこまごました飾り。規則などが煩わしいこと。「縟」は煩わしい、込み入っている意。「縟礼」は込み入った礼儀作法のこと。

 まさに、当時の儒教の性格を、余すところなく言い表した熟語だと思います。

 こんな具合ですから、いざ、仏教が伝来すると、儒学者たちは、仏教僧たちにそれこそ徹底的に、コテンパンに論破されまくってしまいます。
 今まで、存在とは何か、時間とは何か、なんて議論はせずに、お辞儀は何回するのが礼にかなっているか、母親の喪には、何年服すべきか、なんて議論ばっかりやってきたんですから、当然です。
 で、やっと出てきました。
 南宋の朱熹=朱子です。
 南宋は、ご存知のように、宋が女真族の金に華北を奪われた後、淮河以南の地に逃れて建てた王朝です。
 何せ、蛮族と馬鹿にしていた女真族に、中原を逐われたのですから、その屈辱感は相当なものだったと思われます。南宋の士大夫階級は、みな切歯扼腕していたでしょう。
 朱熹が生まれたのは1130年です。靖康の変で北宋が滅んだのが1126年。
 趙構(高宗)の手で、南宋が建国されるのが1127年です。
 朱熹は、まさに漢族が中原から逐われた直後に生まれたわけです。不条理に嘆いたと思います。
 そういう、コンプレックスは、得てして壮大な夢を生みます。
 朱熹が生んだのは、そうした壮大な夢としての、精緻な哲学体系でした。
 それが、形而上学的な哲学原理である〈理〉と、形而下的な哲学原理である〈気〉による、一種の二元論である朱子学です。
 おお、先の小針進先生や、小倉紀蔵先生なんかが言っていた概念が出てきましたね。
 こういう考え方は、インドの六派哲学の一派、サーンキヤ派とよく似ています。仏教哲学の経典には、六派哲学に触れた部分があります。既に、龍樹=ナーガルジュナ(150〜250年頃の僧侶と推定されています)が、サーンキヤ派に言及しています。
 ですから、多分そういう仏典を通じてこうしたサーンキヤ派的な考え方が流入しているんではないかと、個人的には思っています。
 サーンキヤ派、なんてと言うと馴染みがないような気がしますが、実はこの学派が、ヨーガ派の理論的な裏付けになっています。ヨーガの荒行の裏付け・支柱ですから、なかなかに奥深いものがあるのです。
 もちろん、中国古来の陰陽思想も、二元論ですから、朱子学にはその影響もあると思います。
 一種の二元論と言ったのは、存在原理である〈理〉と〈気〉が完全に対等な原理ではないからです。基本的に、〈気〉は、〈理〉に従属します。
 形而上とか、形而下とか言うと、舌を噛みそうですから、別の言い方をしますと、〈理〉は精神的な原理であり、〈気〉は物質的な原理と言うことになります。
 で、精神が物質をコントロールして、「性即理」という、聖人のような心理状態になることを、朱子学は目標としているわけです。
 これは、さっきも書きましたが、インド哲学のサーンキヤ派の考え方と、とてもよく似ています。
 サーンキヤ派は、精神原理プルシャが、物質原理プラクリティを観相し、コントロールして、本来の純粋精神としてのプルシャに目覚めることによって、解脱の道を目指します。
 繰り返しになりますが、スピノザは、朱子学は、サーンキヤ派の影響を受けているのではないかと、秘かに思っています。
 なにしろ、インドで主流だったヴェーダーンタ哲学は、宇宙原理ブラフマンと、個体的原理であるアートマンとの合一を説く、不二一元論と呼ばれる一種の一元論です。こっちは、陰陽二元論とは平仄が合わないので、座りが悪かったのでしょう。
 さて、この「性即理」を実践するに当たって、大事なのは、なんと言っても「大義名分」による、あるべき秩序です。
 さっきも書きましたが、この当時、南宋は金によって中原から逐われていました。
 これは、まさにあるべき正義に基づいた「大義名分」に反した状態、秩序が乱された状態にあるわけです。
 徳に満ちた「王者」が、徳のない「覇者」に負けている状態。
 いや、それどころか、栄光ある中華が、野蛮な夷狄に負けている。
 これはただされなければいけない状態です。
 おっと、なんだか、急に話が生臭くなりましたね。
 なんか、修身のお勉強をしていたかと思うと、いきなり政治の話です。
 本来、夷狄は中華に礼を尽くさなければならない。それこそが正義だ。
 正統なる支配者たる、中華の「王者」に反抗する「覇者」は、悪である。
 悪は滅ぼされなければならない。
 それこそが、世界のあるべき姿である。キリッ!
 って、どっかネットで、これを、
「負け犬の遠吠え理論」
 と言ってました。
 こういう風に、大は世界秩序から、小は身分秩序まで、全てが「大義名分」に支配されている。
 そういうのが朱子学です。
 はっきり言って、〈理〉だの〈気〉だのという理屈は、インドみたいな壮大な宇宙論にはならなかったようです。やはり、ただの修身・政治の議論になるわけです。
 朱子は、己の外部にある「理」を探求し(格物致知)、その「理」という基準を以て現実を評価し、その基準にかなわないならば、現実の方を積極的に変えていこうとします。(易姓革命)
(下川玲子著「朱子学的普遍と東アジア」ぺりかん社。p138)
 おお、なんだか、サルトルのアンガージュマン(政治参加)みたいですね。
 実現すれば、ちょっと格好がいいかな。
 でもこれは、南宋が金に中原を逐われている、という現実をたださなければ、という問題意識から発生した信念なんですね。
 やはり、妻子、国を捨ててまで、個人として宇宙≠ニ向き合った、釈迦国の王子、ゴータマ・シッダールタとの格の違いは歴然たるものがあります。
 で、明代になって、国家教学となった朱子学は、さらにただの科挙合格の道具にまで落ちぶれます。宇宙論もへったくれもありゃしません。
 ちょっと、情けない。


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