9 党争・闘争・逃走
まあ、何はともあれ、一応、李退渓、李栗谷と、それなりの影響力を持った儒者はいたわけです。
でも、その同僚や弟子どもがねえ。
勲旧派は、鄭道伝に連なる、現実主義者でした。なんか、数年前与党だった頃の自民党に似ています。清濁併せ呑んで、ちょっと汚いイメージもあるけど、とにかくやるべきことはやる。
でも、こういうのって、一般大衆には受けが悪いんですよね。
で、空想的(妄想的?)理想主義者の集まりである、士林派から攻撃を受けます。士林派は、鳩山由紀夫元首相が、代表だった頃の民主党にもろに被ります。(でも、韓国では、この純粋≠ネ士林派の受けがいいのだそうです。盧武鉉前大統領の人気とも被りますね。邊英浩氏も、士林派をしきりに擁護します。どこにでも、妄想的理想主義者はいるんですね)。
で、勲旧派が、士林派を弾圧します。士禍と言います。4回もありました。
でも、やられてもやられても不死鳥のように蘇る士林派は、ついに成宗の代に勲旧派を粛正し、執権するようになります。
この時、李栗谷は士林派が対立しないように、文字どおり東奔西走してまわりますが、結局士林派は東人派と西人派に分裂します。
この後、士林派は、くだらない煩瑣な儀礼や、理論上の解釈をめぐってどんどん対立し、ぐんぐん分かれて争い。それがまたさらに分派して。
要するに、つつきの順位をめぐっての対立ばっかりです。
まるで、日本敗戦直後の、朝鮮半島の政治情勢を見ているみたいです。
しかも、その対立が血を見るまで続くんですよ。
党争と言います。
で、その論点が凄い。極端な例がこれ。
1659年、孝宗が亡くなりました。ところが、この孝宗の父であった仁祖の継妃(二人目以降の妃)がまだ生きていました。その継妃が何年服喪すべきか、が大問題になったんですね。
そして一年を主張する西人と、三年を主張する南人が対立します。
この党争は延々と続き1680年に西人が南人の多数とその一族を死刑にして粛正するまで続きます。
(田中明著「物語 韓国人」文藝春秋。p133)
こういう論戦は、声闘(ソント)と呼ばれます。
そんなもの、何年でもいいじゃないか、と思うのですが、こういう〈理の空間〉の事柄に対しては、ケンチャナヨ精神は発揮されないんですね。
不便な社会です。
今でも、韓国では、喧嘩のさいに手を出さず、大きな声で相手を罵る。自分の正義を主張する。そして、野次馬を味方につける。野次馬を、多く味方につけた方が、勝ち、という喧嘩をするんだそうです。
道理も何もあったもんじゃない。かと言って、少年ジャンプ式に、拳で分かり合うというわけでもない。
アメリカの、陪審員制度が、劣化するとこうなるんでしょうか。
野次馬を味方につけるには、理屈よりも情に訴えた方が早いわけですね。
大声で喚いて、野次馬の感情を動かしたものの勝ち。
でも、儒者同士の論戦は、野次馬がいるわけじゃありません。
判定者は王様です。
王様に負けと言われたものは、粛正されます。
北朝鮮みたいにね。
だからコリアンは、たとえ死んでも自分の負けを絶対に認めない。だって、認めたが最後、死んでも≠ネんて比喩じゃなく、本当に一族諸共殺されてしまう。
(田中明、前掲書。p134)
この辺が、今の韓国、北朝鮮の、言ったもん勝ち外交に現れているんでしょうか。
とにかく、嘘でも百編言えば、真実になる。大声で。とにかく主張し続けていれば、いつかは勝てる。そう思ってるんですね。