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11 コリアンの〈孝〉・考

 さて、朱子学といえば、日本にも入ってきています。
 でも、朝鮮儒教は日本のそれとも、中国のそれとも一味違います。
 中国でも日本でも、朱子学の他に陽明学や実学など、他の学問も発達していました。
 日本なんか、蘭学まであります。
 ところが、朝鮮では朱子学一本槍なのですね。
 その上、国土が狭いから、国民一人一人にそれを徹底させることができた。仏教は抹殺され、朝鮮は朱子学一辺倒になります。
 で、日本と朝鮮の朱子学には、明らかな相違があります。
 それは、日本の朱子学が、道徳の最高位に置いたのが〈忠〉であったのに対して、朝鮮のそれが〈孝〉だった、という点です。
 それが、極端に現れたのが、次のような例です。
(田中明前掲書。p62〜63)
 19世紀末の抗日戦での話です。
 相も変わらず戦えば負ける、弱い官軍に代わって、抗日戦を戦っていたのが、李麟栄率いる、義兵の集団だったのです。
 李麟栄は、けっこう善戦します。一時はソウル近くまで進撃するほどでした。
 ところが、李麟栄の老父が亡くなったという報せが届きます。
 日本人的には、ここでお国に対する忠義のために、さらに一層奮戦努力するのが美徳となるでしょう。
 俳優でさえ、舞台のために親の死に目に会えない、なんていうのはごく当たり前です。
 ところが、この李麟栄将軍は、なんと、主君への、国への〈忠〉より、老父への〈孝〉を優先してしまうんですね。
 で、さっさと国元に帰ってしまって、三年間喪に服す。その間に、義兵たちはやられてしまう。
 こんなの、日本だったら敵前逃亡で軍法会議ものです。いや、近代国家の軍隊なら、どこでもそうでしょう。
 なのに、韓国では李麟栄は、〈孝〉の鑑と讃えられ、尊敬されているようです。独立記念館に、詩語録碑なんてものも建てられています。
 なんとも不思議な話ですが、やはりコリアンにとって、国家なんてものは、所詮ウリではないのですね。父母をウリとすれば、国なんざあナムになってしまう。そういうことだと思います。
 ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)、なんて概念は一向になさそうです。
 朱子式の、アンガージュマン精神とも、かけ離れています。


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