2 なんちゃって、悲劇の民族
一方で、朝鮮民族は、自分たちを悲劇の民族≠ニして比定したがります。〈恨〉(ハン)ですね。
その割には、こういう芸術が、朝鮮民族から生まれたという話は、とんと聞きません。
どうして、朝鮮民族からは、こうした芸術が生まれないのか?
こんな疑問を持ちながら、調べていると、尹伊桑(ユン・イサン)という作曲家にぶち当たりました。1917年に慶尚南道に生まれ、1995年に亡くなった方です。主にドイツで作曲をしていたそうです。
北朝鮮でも尊敬され「尹伊桑管弦楽団」なる室内オーケストラがあるくらいだそうです。
お、これは気になる、と探していたら、なんのことはない、ナクソス・ミュージック・ライブラリーにちゃんと登録されていました。
ちなみに、ナクソス・ミュージック・ライブラリーというのは、月2000円弱で、5万6000枚以上の、主にクラシックのCDを聴き放題、という豪儀なライブラリーです。
もちろん、版権が切れているCDが多く、古い録音が多いのが難点ですが、普通に聴いているぶんには不満はありません。
で、聴いてみました。
尹伊桑。
初めに、「我が国土、我が民族よ」
ちょっとスメタナ風のタイトルですね。期待できそうかな?
で聴いた感想のメモがこれです。
ううむ、これを言ったらおしまいだが、つ、つまらん。ありふれた現代音楽≠ノしか聞こえん。打楽器を多用するところが、韓国風なのかな? でも使いすぎだと思うぞ。
レッド・デビルズの応援みたいで、ただうるさいだけ。何か感動を生むようなものにはなっていない。
と、ちょっと身も蓋もないものになってしまいました。
他の曲も、似たり寄ったりで、民族の悲劇を昇華する、というところまではいっていないですね。普遍には達していないように思えます。
というわけで、ペンデレツキどころか、日本の武満徹にも聴き劣りがします。
武満徹は、欧米にたくさんのエピゴーネンを生み出しましたが、尹伊桑は、自身が欧米の作曲家のエピゴーネンに過ぎないように思います。
オリジナリティというものが、全くない。単に、現代音楽の色々な書法をよく勉強しましたね、という感じ。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーに登録してある曲は全部聴いてみましたが、この印象を覆すような曲はありませんでした。
どうも、前に取り上げた韓龍雲の詩といい、この尹伊桑といい、朝鮮民族というのは、どこまでもエピゴーネンでしかないような気がします。
まさに、永遠のパクリ民族ですね。
何か、彼らに独創的なものってありましたっけ?
ちょっと、スピノザには思い当たりません。