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18 インドの事情


 確かに、イギリスはカルカッタ(コルカタ)、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)に総合大学を創設しました。でも、これは長いインド支配の果てに、ようやく1857年になってからなんですね。
 しかも、これは使いっ走りの下級官吏を養成するためなんですね。
 イギリスから、下級官吏をわざわざ遠いインドまで派遣するのは、効率が悪すぎます。それで大学を作った。
 要するに、植民地支配に必要だっただけです。
 これに対して、日本から朝鮮半島まで、日本人の官吏を送るのは簡単です。
 ですから、植民地≠ニして統治するためなら、何も高等教育機関である帝国大学を設置する必要はありませんでした。
 植民地なら、教育になんぞ力を入れずに、愚民化政策に力をそそげばいいんですね。
 その証拠に、イギリスは初等教育の普及には、何ら関心を示しませんでした。
 植民地の庶民は、愚民の方が都合がいいのです。
 1921年の時点で、インド人の、実に92パーセントが、読み書きを知りませんでした。その100年前の1821年の調査でも同様です。つまり、100年かけて、何ら改善されていなかったんですね。
(ビパン・チャンドラ著「近代インドの歴史」山川出版社p124)
 それに対して、悪辣・非道な日帝は、朝鮮に初等教育を普及するのにそれはそれは熱心でした。
 まず、第一にそれまで諺文(おんもん・オンムン)と呼ばれ、女、子供の文字として賤しまれていたハングルの正書法を整理します。
 日韓併合からわずか2年後の1912年、「普通学校用諺文綴字法」、が制定されます。文法も統一されます。
 それまでの、ハングルの運命は、悲惨なものでした。
 日本が日清戦争に勝利した1895年まで、ハングルは公文書に使用することはできなかったのです。公文書は、全部漢文でした。
 この改革の後も、勅令、および外国への伝令は、やはり漢文のみが用いられました。
(イザベラ・バード著「朝鮮紀行」講談社。p33)
 ですから、それまでの、書堂(ソダン)などの朝鮮式初等教育機関では、漢文だけを教えていました。しかも、対象は科挙を受ける資格のある両班の子弟だけでした。
 庶民の子弟のための教育機関はありませんでした。
 庶民の子供達に、読み書きそろばんを教えていた日本の寺子屋とは、大きく違います。
 こうした事情もあって、ハングルは地方ごとに異同があり、公教育に使えるものではありませんでした。その雑多な地方ごとのハングルの正書法と、文法を統一したのが、さっきも書きましたが朝鮮総督府です。
 第一、史上最初にハングルの活版印刷用の活字を作らせたのは、あの「脱亜論」を書いた、極悪・非道の大悪人、福沢諭吉だったのです。


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