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23 自由への戦い

「そして、戦後それが変わった、なぜか?」
 これも愚問ですね。
 日本人が、命をかけて白人と戦い、白人に勝つところをアジアの民衆が見たからに決まっているじゃないですか。
 日本人が、白人の植民地勢力を追い出した。

 だから1950年にバンドン会議が開かれた。

 当たり前の筋道です。
 天国のネルーに聞いたって、ケマル・パシャに聞いたって、同じ答えが返ってくるに決まっています。
 ネルーは、ガンジーとともにインド独立運動を戦った、独立の指導者でした。インドの初代首相でもあります。
 断食のガンジー、投獄のネルー、といった感じで、何度も投獄されています。
 彼は、その牢獄の中から、娘インディラ・ガンジー(後に首相になっています)に、何百通もの手紙を書きました。
 その手紙で、世界の歴史とインドの関係について、詳しく述べています。

(「父が子に語る世界歴史」ネルー著・みすず書房。第三巻p203〜p221)(今は、どうやら新訳が出たようです。でもスピノザの持っていた旧訳で引用します)。
――ところがそのあいだに(中国の停滞の間)、狭い海峡をへだてたところで、日本は奇跡を成就し、誰も思い及ばなかったような変化をとげつつあった。そこでわれわれは、これから日本に目を向けなければならない。(中略)
 1904年のはじめ、(日露)両国の間に戦端が開かれた(中略)一年半の間、激しい戦争がかわされ、全アジア、ヨーロッパ、およびアメリカは、海陸における日本の勝利をまのあたりに見た。旅順港は、日本兵士の驚くべき犠牲的行為と、おびただしい出血を見たのちに陥落した。(中略)
 かくて日本は勝ち、大国の列に加わる望みをとげた。
 アジアの一国である日本の勝利は、アジアの全ての国ぐにに大きな影響を与えた。
 わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、お前によく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなたちが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。
 だとすればアジアは、そのむかししばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。
 ナショナリズムはいっそう強力に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった。しかしこのナショナリズムは単なる復古でも、古い習慣や、信仰の固執でもない。
 日本の勝利は、西洋の新産業方式の採用のおかげだとされている。この、いわゆる西洋の観念と、方法は、このようにしていっそう全東洋の関心をあつめることになった。――(改行と( )はスピノザ)

 もちろん、この後、ネルーは日本が中国に進出することを咎めているわけですが。それはそれで、また別の話です。
 日本の勝利が、広くアジアの諸国民に自信と勇気を持たせたことは、争う余地のない事実≠ナす。


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