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15 ピョンシンとしてのナム

 ナムに関しては、こんな信じられないようなことも起こります。
 仮にBさんとしておきましょう。
 Bさんは、車椅子で世界を旅しています。
 そして、西欧諸国や、アメリカを旅した後に、日本に帰ってくると「ああ、やっぱり日本はまだまだだなあ」と思うのだそうです。
 諸外国では、障害者に優しく、バリアフリーなど、工夫された施設が造られています。そして、人もまた、他人のことなのに、当然のように介助してくれるのだそうです。そういう意味で、日本はまだまだだと思ったのだそうです。1994年の話です。

――アメリカでは、日本の悪いところばかりが見えた。――
――韓国では、日本の良いところばかりが見えた。――

 Bさんの、1994年の述懐です。以下、Bさんのサイトから引用します。ちょっと、長くなりますが。( )はスピノザ。

――(前略)この日のうちに慶州にいくため、釜山駅に向かう。
地下鉄で中心街から釜山駅に向かう。まず地下鉄に乗るのが大変だった。(中略)(階段では)友人2人では、私は重たく運べない。(中略)階段では、4人の人に担いでもらうのが一般的方法である。
すなわち、あと2名の助けがいる。
 同じく地下鉄に乗る人に声をかけるが、英語で話しかけるせいもあってか誰も止まってくれない。
 本当なんです。誰も助けてくれない。
(中略、この間に、釜山から慶州へ向かいます)
 いよいよ、慶州駅について、降りようとしたそのとき、ホームから、大きい荷物を抱えた人達が血相を変えて、列車に乗り込んでくる。
 我々は降りる客、乗ってくる客にサンドウィッチされ、押しつぶされる。
 ♪おしくらまんじゅう押されて泣くな。(中略)
 私を支えてくれた友人の手は私から離れ、もろくも私の体は崩れ去った。(中略)
 嵐が去った。床に崩れた私は、体中を踏まれ、どろどろになった。友人も同様にもみくちゃにされていた。(中略)
 助けてくれないのも、つらいけど、傷つけられるのは、もっとつらい。――

 この後Bさんは、ソウルに着きます。そこでのエピソードが以下。

――(前略)ソウルでも大変だった。
 それは、道の向こう側に行くために、地下道を通っていたときだった。(中略)あるおじさんに協力を依頼した。ところが、頼む人を間違ったらしい。
 そのおじさんは、手助けを頼むと、我々に眉をつりあげて説教しだした。
 韓国語なんで何をいっているのか正確にはわからないが、どうも
「お前なんかが街を歩くな。家に居ろ。外に出るな!!!!」
 みたいなことを言ってくる。助けを求めて説教されるとは、トホホ。。。――

 少々長い引用になりましたが、印象的なエピソードだったので。
 この文章を、初めて読んだときは、衝撃を受けました。嫌がらせされるのを防ぐため、サイト名やURLは書きません。
 スピノザが、最初にBさんのホームページを読んだのは、だいぶ昔ですから、現在は、バリアフリーなどに関しては、日本もかなり改善されています。
 2006年に、またもやソウルに出かけたBさんによりますと、韓国でも状況はそれなりに改善されているそうです。
「お前なんかが街を歩くな……」
 というのは、障害者は病身(ピョンシン)と呼ばれて差別され、家に引き籠もっているのが普通だからです。
 韓国の障害者差別は、それは酷いものなのです。
 ちょっと信じられない。一次ソースの典拠を書けないことをいいことに、お前は脚色しているんじゃないのか、という方がいらっしゃるかと思います。
 次の節で別のソースを出します。


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