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12 本当の植民地支配

 前にも書きましたが、スピノザはインド史を専攻しています。
 植民地インドは、宗主国イギリスに、本国費=iホーム・チャージ)という名目で、毎年税収の4分の1を搾取されていました。(吉岡昭彦著「インドとイギリス」岩波書店。p166〜172)
 どんなに富んでいる国でも、国富の4分の1を毎年搾取されたのでは、その富は維持できません。こうして、インドは、世界で最も豊かな国から、最貧国へと転落していきます。
 税金というものは、本来道路や橋、学校など、インフラの整備費として、税金を払っている人々に還元されるべきものです。
 ところが、この本国費は、まったくのやらずぶったくりなのですね。イギリスにインドの国富を流出させるだけだったのです。その見返りは何もなかったというわけです。
 つまり、イギリス人は、本国費をイギリス本国のためにのみ使い、インドには全然還元しなかったんですね。
 インドは、今書いたように、イギリス東インド会社がやってくるまでは、世界で最も富んだ国のひとつでした。それが、今貧困に喘いでいるのは、まさにこうしたイギリスの搾取のせいなのです。
 その、最も残虐な例の一つが、これです。

――(前略)こうして糸をつむぐ機械と布を織る機械の完成は、イギリスの綿工業を発展させる基礎となった。そしてイギリスはこのような紡績機械を背景に、当時安くて美しい織物をたくさんつくっていたインドの綿工業と対立していったのである。だがいくらイギリスの機械が優秀でもインドの職人がつくる様な美しい布は作れなかった。
 そこでイギリスはインドの職人たちの両腕を切り落とし、目をくりぬいた。そのころインドの綿工業の最大の中心地ダッカの人口は、18世紀には15万人もいたのに1840年には2万人になっている。かくてイギリスの綿工業における絶対的優位は確定したのである。――
(「歴史を動かした発明」平田寛著(岩波書店)p169)。

 まあ、ぶっちゃけた話、イギリスで作られた機械製の粗悪な綿布は、インド人の職人芸が生み出す、精緻に作られたキャリコやモスリンなどの綿製品に対して全く競争力を持たなかったのですね。
 それで、このような蛮行におよんだという訳です。
 その結果が、これです。

――これほどの悲惨ぶりは商業の歴史に例をみない。綿織物工の骨がインドの平原を白く染めている。――
(「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著・山川出版社p185)

 イギリス人のインド総督、ウィリアム・ベンティンクの1834〜1835年の報告です。
 この、
「綿織物工の骨がインドの平原を白く染めている」
 という言葉は、カール・マルクスによって引用され、有名になった言葉です。
 圧倒的な物量を生産できる機械製品が、手工業を駆逐した、という文脈で語られることの多い言葉ですが、実際は、当初の機械製品は、品質でも量でも熟練した手工業に太刀打ちできなかったのです。
 それにしても、まさに凄惨な状態と言うしかありません。

 こういうのを、植民地支配と言うんですね。

 しかし、朝鮮史の学者たちによると、日帝(イルチェ。大日本帝国のことを、コリア関係の人はこう略称します)の支配は、このインドにおけるイギリスの支配より過酷だった、と言うのです。

 にわかには信じがたい話です。

 とは言え、世界史教師、などと言っても、専門分野以外は、せいぜい新書レベルの知識しかありません。専門以外の分野は、そこを専門とする人たちの意見を信じるしかありません。
 そして、昔の朝鮮史の学者たちは、声を揃えてこう言い続けていたのです。
「日帝の植民地支配は、世界史上類例を見ない、最低、最悪の植民地支配だった」と。
 基本的には、スピノザは、朝鮮史の学者たちの言うことを鵜呑みにしていました。
 まさか、朝鮮史の学者たちが、揃いも揃って、反植民地史観、というイデオロギー≠ノどっぷりと染まって反日発言をしている、などとは夢にも思わなかったのです。
 ただ、世界史上最悪の植民地支配、という言葉には、眉に唾をたっぷり付けさせてもらいました。
 なにしろ、スペイン、ポルトガルの中・南米植民地支配、という凶悪な例があったからです。


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