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18 何と水車が作れない

 こういう次第ですから、なんと李氏朝鮮中期では、水車を作ることが出来なかったのです。以下、ソースです。

――(前略)室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、(中略)模型を作り(中略)製造法を報告している。この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだ(中略)
 これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる100年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第51段)に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。(後略)――
(「日韓・歴史克服への道」下條正男著、展転社p226〜227)

 この、水車については、2ちゃんねるに面白いコピペがあったので、貼っておきます。労作です。



1429年 世宗11年10月3日       日本の水車が凄いと報告。
1430年 世宗12年9月27日       水車を造ろうとする
1431年 世宗13年5月17日       中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
1431年 世宗13年11月18日      日本と中国の水車の研究の記述がちらほら。
1431年 世宗13年12月25日       水車導入を試みる。
1451年 文宗元年11月18日       どうやら水車の導入に失敗。
1488年 成宗19年6月24日       水車導入の試みがあります(そして音沙汰無し・・。)
1502年 燕山君8年3月4日        水車導入の試みが書かれています(そして音沙汰無し・・・。)
1546年 明宗元年2月1          水車導入の試みが書かれています。琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。
                   ここから100年間水車の記述が有りません。消滅したようです。
1650年 孝宗元年5月15日        水車導入の試み。そして三〇年記述無し。
1679年 肅宗5年3月3日         水車を造らせたと記述。そして70年記述無し。
1740年 英祖16年4月5日        水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方、今無見存者』
1740年 英祖16年11月20日      また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
1764年 1763ー1764年の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。
1795年 正祖19年2月18日       水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
1811年 純祖11年3月30日       ここの記述でも水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない事が読み取れる。


 
 なんと、最初に水車の報告があってから、四百年近く経っても、まだ水車一つ満足に造れなかったんですね。
 ちょっと、驚きです。
 多分ですが、このコピペを最初に作った人は、「朝鮮王朝実録」や「日東壮遊歌」などを丹念に読んで、水車に関する部分を拾ったんだと思います。
「朝鮮王朝実録」は新潮社から、編訳が出ています。また、「日東壮遊歌」は、平凡社から出ています。それを読んだんでしょうか。まさか、漢文の原典に当たったんではないとは思いますが。(「日東壮遊歌」の方は、原文がハングルです)。
「朝鮮王朝実録」は、すみません、まだ当たっていません。
 ということで、正誤は不明ですが、まあ、状況証拠からいって多分こうだったんだろう、ということで貼らせていただきました。少し、眉に唾を付けてご覧になって下さい。
 とは言っても、前のスピノザの「百済音」の例からも分かるとおり、ハングル板では、間違いには、まず必ずと言っていいほど突っ込みが入ります。
 突っ込みがないところを見ると、多分、このコピペのとおりなんでしょう。


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