22 お米が食べたいよー
さて、朴慶植は、
「二重、三重の収奪の下に呻吟するようになった」
と言いますが、二重、三重の収奪、とはなんでしょう?
ここで、やはり韓国の教科書を見てみたいと思います。
「国定韓国高等学校歴史教科書」p400〜401です。
――(前略)日帝は工業化の推進による食糧の不足分を我が国から搾取しようとする、いわゆる産米増殖計画を立て、これを我が農村に強制した。(中略)
増産量より遙かに多い量の米穀を収奪したので、我が農民は食料事情が極度に悪化し、飢餓線上に苦しむようになった。このため食糧の不足分を満州産の安価の雑穀で充当しようとしたが、根本的な解決策にはならなかった。(後略)――
ええと、これはまたずいぶんと簡単に自爆≠オた記述ですね。
この教科書に突っ込む前に、ちょっと前に書きました、朝鮮には水車がなかった、ということを思い出してください。まともな灌漑ができなかったということですね。
ならば、水田は?
当然出来ない。
以下中川八洋著「歴史を偽造する韓国」p81からです。
――朝鮮農業が驚くほどの後進性を示すのは、その水田の八割が天水(雨や雪など)に依存して池やダムなどの水利施設が全くなかったことで、日本で言えば大化の改新以前の水田であった。――( )内はスピノザ。
この状態で、
「産米の増殖を強制した」
もなにもあったもんじゃありません。
そして、「食糧事情の悪化」については、自分たちで答えを書いていますね。
「満州産の安価な雑穀で充当」と。
この辺が、大変卑怯で卑劣な記述です。
読んでいる韓国の高校生は、当然今は毎日白米のご飯を食べているわけです。
だから、昔も白米のご飯を食べていたに違いないと誤解する。
その白米を、日帝に収奪された、と思い込む。
そういう仕組みになっています。
でもですねえ、じゃあ、現代の北朝鮮は?
そうですね。一時は、蕎麦粥のようなものを食べているという報道もありましたが、最近はどうやらトウモロコシを食べているらしい。
しかも、トウモロコシの実ではなく、芯を食べている、なんて報道まであります。
思い出してください。1992年における、金日成の年頭の辞を。
「瓦屋根のある家に住んで、白い米を食って、肉の入ったスープを飲み、絹の布団に寝るという人民の古来からの願望は遠からず実現されるであろう」
というのが、金日成の有名な誓いの言葉です。つまり、この時点で、少なくとも北朝鮮では、人民は白い米のご飯を食べることが出来なかったのです。
一九九二年ですよ!
しかも、別にこの時点でのみ$Hべられなかったわけではないんですね。白い米のご飯は、人民の古来からの夢≠セったのです。
金日成が亡くなったのが、1994年7月8日です。
そして、「アジアプレス・ネットワーク。北朝鮮報道総合版」2010年1月11日版によれば、
――北朝鮮の労働新聞が9日に、「新しい勝利への戦闘的旗幟」という記事で、金正日が昨年現地指導で、「首領様は人民が米のご飯に肉のスープを食べ、絹の服に瓦の家に住めるようにするべきだとおっしゃったが、我々はその遺言が達成できなかった」と話したと伝えた。――
となっています。
金日成の年頭の辞は、達成できなかったのです。
でも、まあそれは北朝鮮の話で、韓国では違うだろう、と仰るかも知れません。
しかし、韓国も、まともに米のご飯を食べられるようになるのは、早くても1970年代。
まあ、毎日食べられるようになったのは、1988年のソウル・オリンピック、いわゆる88(パルパル)オリンピックの頃からだそうです。
じゃあ、何を食べていたんだといえば、教科書に書いてありますね。
「満州産の安価な雑穀」と。
これは江戸時代の農民も同様でして、米は基本的に売るものでした。で、農民は稗、粟、麦などの雑穀を畑で作ったり、購入したりして食べているんですね。
李氏朝鮮時代の人口は、ずっと700万人〜900万人前後で安定していました。(そもそも李氏朝鮮の人口統計が、信用できるものなのかどうかは、この際横に置いておきます。だからこそ、土地調査事業や戸籍の整備などが必要だったわけですが)。
それが日帝支配の終わり頃、1944年には2512万人となっています。
倍増なんてものじゃありませんね。