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19 初等教育事情

 日本の保護国だった、統監府時代の5年間で、大韓帝国政府は小学校(国民学校)を100校しか作りませんでした。
 それが併合後、5年経った1915年には、410校まで急激に増えています。
 当然のことですが、近代的な小学校を作るためには、校舎の建設費用、教員の給与、様々な備品や教材など、莫大な資金がいります。
 その資金は、明治天皇からの恩賜金≠P700万円の利子と総督府からの補助金でした。
 こうして、朝鮮の小学校はその後も増加を続け、1943年には4271校まで増大します。
 この他に、就学2年の簡易学校が1563校ありました。
 これだけの教育機関を作るのが、全部日本の資金によったのです。
(中川八洋、前掲書p45〜46)
 しかも、こういう初等教育を行うには、教員の養成が必要になります。
 で日本は、師範学校を15校作りました。
 おかしいですよね。
 金両基が言うように、日本の朝鮮における教育政策が、日本人のためのものであったのなら、イギリスと同様に愚民化政策を推し進めていればよかったのです。なのに、師範学校まで作る。
 これが、悪辣な日帝の正体という訳です。
 また、金両基は、

――京城帝国大学に理工学部が出来るのは1938年になってからです。国家形成には理系の人材が必要なわけですが韓国を併合してから30年近く、大学を創設してから15年も、理工学部を作らなかったのです。――
(「海峡は越えられるか」p222)

 なんて言っていますが、これは典型的な後知恵ですね。現在の価値観でものを言っている。
 何度も書きましたが、李氏朝鮮では、実学は軽んじられていました。自前では、水車一つ満足に作れなかったくらいです。大韓帝国も同じことです。
 人間の意識というものは、そんなに簡単に変わるものではありません。理系を軽んずる意識は、併合後も続いていたと思いますよ。
 国家形成に、理系の人間が必要だ、なんて認識は、当時の朝鮮の知識階級にはなかったと思います。
 そんなに早く理工学部を作っても、志願者がいたかどうかさえ疑わしい。
 民度が、理系教育の必要性を認めるところまで進歩したあたりで、ようやく理工学部が設立されたんでしょう。
 それに、イギリス領インドでは、さきの三大学が作られたときに、ときを同じくして、ルールキーに工科大学が作られました。けれども、ここはヨーロッパ人とユーラシアン(ヨーロッパ人とインド人の混血)しか入学が認められていませんでした。
 インド人は、もろに差別されていたのです。
(ビパン・チャンドラ・前掲書。p125)
 こういう、近代的な教育システムも、コリアンに言わせれば、当然日帝の負の遺産≠ネわけですね。
 まあ、確かに朝鮮人を愚民のままにしておかなかったのは、
 日本人にとっては負の遺産≠ナすが。(苦笑)
 こうして、教育関係だけでも、日本は朝鮮半島に莫大な投資をしたわけです。


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